私の青年期

2022年11月に30歳になりました。焦っています。

31才まで残り1日 -敗北を認める、人生が続くこと-

残念ながらこの1か月間、更新が滞ってしまった。自身の性格上、一度中断してしまうと再開は難しい、それは分かっていた。だから、毎日更新ができないことを早めに受け入れ、できる範囲で更新をしていこうと思っていた。「早いとこ敗北を認めよう」、そう考えていたが、結果的には丸1か月空いてしまった。

忙しかった、精神的余裕がなかった、というのが更新できていなかった理由で、基本的にはそれに尽きる。もうひとつ付け加えるなら、ブログの内容のハードルが自分の中で上がってしまっていたのも良くなかった。

 

さあ、ついに30才としての1年間が終わる。この1年を振り返りたい気持ちはある。だが、今日も今日とて作業をしなければならない。この2か月は特に慌ただしく過ごしている。色々と予定が詰まっていて、立ち止まる時間がない。そんな日々を過ごしていると、30才最後の日がそれほど特別なものに思えない。具体的には明後日に試験があるし、12月もあれこれ予定がある。計画的に動かないと生活が破綻することが目に見えていて、はらはらしている。

31才まで残り60日というタイミングでブログを再開し、何となく誕生日まで100m走を走るような気持ちでいた。だが、今の心持ちとしては、どちらかというとハーフマラソンの途中のような感じだ。30才の終わりはゴールではない。人生は続いていくということを認めなければならない、と最近はよく感じている。しかも、このハーフマラソンは、次のフルマラソンの準備でしかない。

 

今年1年、多少は計画的に生き、人間として成熟しようとあれこれ試して、少しは前に進んだ気がしている。人間関係、旅行、仕事、勉強、健康への意識、様々なコンテンツからの刺激、色々と学びはあった。

同時に、自分自身の変えられない部分に意識的になった。変わなければならないと思っていた自身の性格や考え方を、一旦受け入れてみようかと最近は思っている。

 

将来への漠然とした不安がある。だから、あれこれ予定を詰めてみたのだが、それでもなお不安は拭えない。どうしようかと悩んでいた。

とは言っても、未来のことを考えると不安になるのは当然だろう。それは当たり前のことだ、悪い想像はいくらだって出来てしまう。つまり、「未来のことはそれなりに考えるくらいで十分」なのではないか。有り体に言えば、今を生きよう、ということだ。

 

今、「幸せか?」と問われれば、「幸せじゃない」と答えてしまう。「つらいか?」と聞かれれば、「つらい」と答える。

「じゃあ1年後の自分は幸せか?」と質問されたらどうだろう。考えてみると、「分からない。でも、何か新しい人生観を手に入れて、楽しく生きていてほしい」と、願いのような言葉が出てくる。まだ人生に期待している自分に気付く。これには良い面も悪い面もあるだろうな。

何のために生きているんだろうか、というありがちな問いが、年齢や自分の置かれている状況が相まって、冗談では済まないものになってきている。

自分の人生は自分のものであると、最近やっと気付き始めた。それと、人生というのは自分の思想を確立することだ、ということをよく考える。

 

 

ああ、まとまりもなく長くなってしまった。作業に戻らなければならない。30才最後の日は、20代最後の日に比べ、呆気ないものだった。全ての悩みは自分の蒔いた種なのだから、それを片付けるのも自分なのだ。全てを受け入れ、じゃあどうしようかと考え、少しでも歩を進める。もう本当にそれしかない。

これが正しいかは分からない。とりあえず、30才最後の日の自分はそう考えている。あとはこれからの自分に任せるよ。

 

タイのトゥクトゥク、雨に打たれるタクシーの車内から。楽しいことも沢山あったはずなのに、暗い文章を書いてしまった。