私の青年期

2022年11月に30歳になりました。焦っています。

残り1時間 -30歳の何を恐れていたのか、どう生きるべきか-

これは今年で30歳になる私が、20代を終える焦りで始めたブログです。
30歳までの100日間、毎日30分は時間を取って書いてみようと思います。
 
書き残すこと、恐れていたこと

文章を書き残すことで、特定の瞬間の自分をそこに固着させることができる。

人生の連続性は、ふとした瞬間に自己を宇宙的な無辺際な空間に放り出す。別に大海のイメージでもいい。そこで文章は自分にとって、錨をおろすような行為に思える。もう少し格好悪く、蛍光オレンジのブイを浮かせる行為と言ってもいい。

要は文章を書くことが好きだし、読み返すことも好きだ、ということだ。それと同時に書き残さないことで、何かが失われるようにも感じている。

青年期の総括をしたかったのは年齢を重ねるにつれ、みるみる過去の感覚を忘れていくように感じたからだ。人格形成に大きく影響したものが、どのように自分に作用したのか思い出すことができない。影響を受けた、という事実は覚えているが、それを経る前と後で自分がどう変わったかを説明できない。そう感じていた。

だからこそ、まだわずかに感覚が残っているうちに、青年期に得たものを文章で形にしておきたかった。大海でいうなら、現在地と遠くなってしまっていてもいいから、とにかくどこかには係留させておきたかった。形にしなければ、いずれ海に溶けるように、なくなってしまい、もう見つけられなくなってしまう。

20代という区切りで書き残さないのであれば、自分はもう書き残すという行為をしないだろう、もう失われていくだけだ、とそんな恐れからブログを始めたのだと思う。

そして、もうひとつ恐れていたのは自分が鈍くなっていくことだ。実際に、音楽でも小説でも映画でも、没頭の度合いが浅くなってきている。それは刺激への耐性がついてしまったからかもしれない。だが、どちらかというと深い思考をしなくなり、できなくなり、加えて想像力も貧しくなってきている、と感じていた。多くの才能ある人たちは20代の感性や想像力を基に作品を残している。20代でしか残せない何かがある。そう信じていたからこそ、20代のうちに青年期について書き残したかったのだろう。

だが、残念ながら20代で書くべきであったことを書ききれずに、30歳を迎えることになりそうだ。

 

30歳をどう生きるべきか

事実として、あと5分後には30歳になる。無情にも、というか当たり前のことだが。30歳という区切りはもちろん社会的にも一定の意味を持つが、何より自分にとって大きい。何をするのにも「30歳まで」という留保を設けて生きてきてしまったから。20代のうちにやれなかったことが山のようにある。35歳まで、と次の締め切りを設ければいいというものでもない。きっと「"20代"のうちにやりたかったこと」だったのだろう。

30歳までにこうなりたい、というのは何故だか漠然と想像ができたが、40歳なんて到底想像ができない。率直に不安を感じる。

 

だが、まだ上手く言葉にはできないがこの1か月ほどで、少し30代を生きていける気がする瞬間があった。ふと30歳という年齢が、何の制限もないフラットなものに思えた。20代が持っている可能性や希望は、時に理想像や憧れの対象との乖離に自分を苦しませる。だが、30歳は20代に比べれば可能性は狭まるものの、他者との距離感を正しく認識し、自分と素直に向き合うことができるのではないか、と。

 
ロスタイム

少し30歳を生きる糸口が見えたといえども、まだ実感が湧かない。それに青年期の総括がまだできていない。20代のうちに済ませておきたかったが、仕方がない。30歳でやるしかない。

開き直りのようだが、例えば上期の総括は下期に入ってからするように、青年期の総括は青年期を終えてからするものだろう。別に青年期を脱したとも思っていないが、10代後半~29歳の振り返りなら、30歳にしていけないはずがない。

と、考えとりあえず年内はロスタイムを宣言し、もう少し青年期について書きたいと思う。今度こそは、毎日とは言わずとも週に1~2本は書いていきたい。

 
最後に

この80日間のうちに、読者登録をしていただいた方が増えていた。今回は大変冗長な自分語りになってしまいましたが、今後はもう少し読みやすい文章を心掛けていきますので、よろしくお願いいたします。

この頃の疾走感を取り戻すことはできるのでしょうか