私の青年期

2022年11月に30歳になりました。焦っています。

残り95日 -平日の夜と不安感-

これは今年で30歳になる私が、20代を終える焦りで始めたブログです。
30歳までの100日間、毎日30分は時間を取って書いてみようと思います。

 

今日の精神状態を考慮すると

楽しく過ごした週末を終え、月曜日を迎えた。また仕事が始まった。

今日の仕事はわりと精神的な負荷があった。今日は木曜日の会議の準備をしたかったが、空気を読んで損な役回りを引き受けたことで、ほぼ進められなかった。そもそももっと早めに準備に動くべきだったのだが、先週は別の会議資料にメッセージ性を込めるのに張り切ってしまい、手をつけられていなかった。

遅れを取り戻すため、今日はこれから資料作成をしなければならない。

逃避願望が頭をぼんやりとさせ、焦りが胸をざわつかせるのを感じる。

 そんな心持ちでどうやってお笑いのことを振り返ればいいのだろうか。


ということで、今日はこれまで何回も何回も繰り返してきた、少し暗い平日の夜について書いていきたい。

制限時間は45分。

 

CAFFE VELOCE

職場からアクセスの良い繁華街にチェーンの喫茶店ベローチェがある。今もベローチェでこの文章を書いていて、ここにはもう7年近く来ている。

この街は歩ける範囲にベローチェが4店舗ある。群生地だ。ドミナント戦略とも言う。

その中でもこの店舗が一番好きだ。駅前やオフィスに近い店舗に比べ、適度にゆるい空気感があって、どうしようもない大人が多い。

これは駅前のベローチェ

ベローチェは一般的に、同価格帯のドトールに比べ店内がゆったりとしている。内装も落ち着いていて、椅子も基本的に革張りだ。そして、アイスコーヒーだけを頼んでもトレイに載せてくれる。別に仕方ないと思うが、ドトールにそのサービスはない。私はベローチェのトレイにいつも慈愛を感じている。

 

4年前まで、多いときには週5回来ていた。挙句、ベローチェも含めこの街が気に入って、近くに引っ越してきてしまった。

だが、そうするとベローチェに寄らず家に帰った方がむしろ楽だったので、回数は減った。ベローチェを求めるがあまり、ベローチェから遠ざかることになった。皮肉である。

そしてコロナ禍に入ってからは閉店時間も早くなってしまい、平日に立ち寄ることは更に少なくなった。

以前はふちねこキャンペーンもやっていた

しかし、またここ何か月で、週2、3回は立ち寄るようになった。

4月から担当業務に変更があり、新年度の方向性を色々と練らなくてはいけなくなったので、作業効率と自分の気分を上げるため、10年ぶりにノートPCを買い替えた。Surface Laptop Goである。これまでのPCよりだいぶ軽く、仕事に持っていってもさほど苦じゃない。

そして、ちょうどベローチェも営業時間が22時までに延びていた。30歳を年内に控えた焦りを仕事にぶつけようという思いも少しあって、またベローチェライフが始まった。

 

 

こうして書いているとベローチェへの愛着が溢れてきて、なんだか気持ちが上向いてきてしまった。

だが、ベローチェで過ごした膨大な時間で感じていたのは、大抵が不安感や焦燥感、寂しさ、手に入らないものへの憧れだった。

そう、それを書こうと思っていたんだった。

 

なお、設定したブログ作成の制限時間45分は、とうに過ぎている。

 

ベローチェで不意にやってくる不安感

4年前までは実家に住んでいて、折り合いの悪かった父と顔を合わせないためにも、23時までベローチェで過ごしていた。店内が空いているのをいいことに、3時間近くコーヒーとサンドイッチで居座っていた。

当時は仕事は残業をして会社で片づけていたから、ベローチェでは本を読んだりYouTubeを観たり、延々とネットサーフィンをしていた。

最近はネットサーフィンをしながらも主に仕事をしている。業務への責任感や、エセ意識高い系としてのプライド、それとサービス残業への恨みをないまぜに、取り組んでいる。

 

そうして過ごしていると、不意に不安感に襲われることがある。

胸がざわつく。心が胸にあるとして、その輪郭がどんどんぼやけていくようで、段々ひとつのことを続けられなくなる。本を読み進められなくて、開いたり閉じたりする。Webページも少し読んで、次々に違うものをタップしていく。仕事もできない。

 

切羽詰まって頭の中で自分に問いかける。

この不安感は何だ。何が原因だ。何をすれば解消されるんだ、と。

胸にわだかまる何かの原因を、あれか?これか?と考える。仕事だろうか、友人だろうか、過去だろうか。

考えたところでひとつの原因に辿り着くことはできない。いつも抽象的で大きな何か、これまでの人生の歪みとか、そんなところに行き着く。

そうした時に考えがちなのは、やっぱりアイデンティティが拡散しているからだとか、生きていく指針がないからだとか、幹となる部分があまりにも細いからだ、といったことだ。

 

自意識なんて所詮玉ねぎで、剥いていけば何も残らないと分かっている。それでも自分の中心に何か核があると信じたい。あるべきだと思っている。

それは自分の選択がただのランダムだと思いたくないからだろうか。自分の意志で選んで、この道を来たと思いたいのか。何故だろう。自分の幸福が、ただ与えられたものではなく、獲得したものだと思いたいからか。分からない。

 

この不安感は、この場にとどまることへの不安ではないか、と考える。ここでこうしていていいのか、という不安。私は成長、発達、向上しなければならない、という潜在的な義務感だろうか。

現状のまま横ばいに生きていれば、いずれ下がっていく。今目の前にあることへの不安ではなく、いつか向き合うことになる不安を予期して、不安になっている。


今日もそんな不安感を覚えたから、この文章を作り始めた。この感覚は、自分の青年期において、特徴的な傾向と言える。

 

書き残すということ

そんな時にいつも自分がどうしてきたか考えてみると、とにかく思考を書き連ねていたように思う。

思考を整理するために論理立てるというよりは、感覚的でもいいからどうにかこの心象に合った言葉を探す、というような作業だった。

 

"焦燥"という単語でEvernoteを検索すると、2019年5月のメモが出てきた。

「焦燥だけがあって、実際のところ何を望んでいるのか分からない。早く何かで埋めなければ渦にのまれる。それは下水道に続く排水口か、元の形を留められないブラックホールなのか。じっくりとユニットバスの渦を眺めて流される先を想ってみても、考えるほどに、これと自分を重ねるという思考こそが、余計にそんな状況を生んでいるという考えが強調される。

 この焦燥感に、ゲームのアップデートパッチのように何らかの情報を追加して刺激を与える。漠然とした不足感にぴったりと合う何かなどあるはずはないのだが、とりあえずネットサーフィンをしてみたり人気のない居酒屋に入ってみたりする。」

このメモには何も建設的なことは書かれていない。

排水口やブラックホールという表現が優れているのかは別として、感覚と思考をどうにか書き表そうとしたのだろう。


書き残すことで、この不安感に名前を付ける、枠組みを与える。情緒的な思考の整理と言ってもいいかもしれない。そういったことをやり続けてきた。

 

思えば、感覚をテキストにすること、それは自分にとってセラピーのようなものだったのだな。

 


このブログはそもそも青年期の整理を目的としていた。

自分が何故文章という形式をわざわざ取ったか、少し分かったような気がした。

 

6日目を終えての感想

・制限時間45分のところ、休憩しつつ4時間近く書いていた。案の定、深夜になっても資料に手を付けられていない。

・今回は自分が文章を書く理由について、これまでと異なる角度での気付きがあった。

・同時に、文章を書くこと自体が好きだということを改めて認識した。

 実際に今日は不安感があったからこそ、ダウナーな内容でいこうと決めたのだが、ベローチェについての導入を書いているうちに楽しくなってしまい、陽気な蛇足ばかり書こうとしてしまった。その軌道修正にも時間を要した。

・来週からもう涼しくなり始めるようだ。残り少ない夏、どうにかしなければ。